斜陽/太宰治


去年の8月、RSRへ出発する空港で購入した太宰治の「斜陽」をようやく読み終えた。
「斜陽」を手にしたのには深い意味はない。
飛行機の中で手軽に読めそうな薄い文庫本を探していたら、たまたま目についただけだ。
結局、飛行機の中ではそれほど読めず、帰宅後もだらだらと時間が過ぎ、とうとう今日まで引っぱってしまった。
とはいえ、「斜陽」がつまらなかったわけではない。
これは面白い。
ストーリーの起伏があまりないので、間が空いてしまっても、続きを難なく読めるのだ。
「僕は、貴族です」
「斜陽」には印象に残る素敵な表現がたくさんあった。
角田光代を見倣って、おおっと思ったところのページを折りながら読んでいたら、折り目だらけになってしまったほどだ。
そのなかでも印象に残ったのが、最後の最後、主人公の弟の遺書の中の言葉だ。
すべての事象がこの言葉に集約されているような気がした。
没落貴族の家庭を舞台にした小説、といっても、正直、あまりピンとこない。
貴族と呼ばれるような方と接したことがないからだ。
たかだか60年ほどの前のお話だというのに、ずいぶん、世界は変わってしまったみたいだ。
小説の言葉から、イメージが拡大されていく。
いろんなことが頭を巡る。
それは、例えばロックの歌詞だったりもする。
 生きることばの速さがいいぜ (流れゆく君へ/泉谷しげる)
 人は嘘をつく時には 必ず真面目な顔をするの
 そんな太宰治のようなことを ポニーは真面目な顔で言う
 (こんなもんじゃない/真島昌利)
 しくじった しくじった (積木遊び/椎名林檎)
真の革命のためには美しい滅亡が必要。
という思いには共感はできない。言葉の上っ面だけを描いているようにさえ思える。
だがしかし、共感はできないけれど、理解はできる。
理解できるというよりは、一種の憧れなのかもしれない。
いや、滅亡とか自滅とか革命とかに憧れているわけでもない。
何を書いているんだかわからなくなってきた。
わからなくなってきたついでに、ますますわからないことを書く。
時代が時代なだけに、マルキシズムとか革命なんて言葉がホウボウにでてくる。
今の日本ではそんなことを大真面目に掲げるような光景はみられない(と思うんだが)。
が、実は、太宰治の時代なんかよりも、今の時代のほうがずっと社会主義的な世界であることは明白だ。
今の政治のもめ事のほとんど全てが社会主義的政策に絡んだものだ。
「斜陽」でいうところの革命は緩やかに進み、今に至っている。
そんな現代だからこそ、太宰の文章はリアリティを感じるし、まったく古くささを感じないような気がする。
と、わけわかんないことを書いてしまうでもなく、単純に「斜陽」は面白い。
この小説が発表されたときには大きな反響があったようだが、当時、「斜陽」はどんな風に読まれていたのだろう。
没落していく貴族に対する興味本位の読み方もされていたんだろうか。
それとも純粋に「文学作品」として捉えられ、読まれていたのか。
そのどちらもあったのかな、私がそう感じたように。

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